ガタカの呪い

個人への話じゃ無いので普通に書く。

【1】「理想」世界に私の居場所なんか無い
ガタカ」を見た。辛い事があっても、見ればつかの間の「夢」をくれた映画だった。
でももう昔と同じ様には泣けなくなってしまった。違う意味で泣けてきたけど。
アレはもう私にとって「呪い」の映画だ。
 
地下猫さん所のブックマークにはディストピアだみたいに書いたけど、「清く正しくキモくない美しい」人々ばかりになれば、確かにそこにも差別は残るだろうけど今程じゃあ無いかもしれない。それとも今度は些細な差が凄く大きな意味を持つ様になるんだろうか?眉毛が1mm長いか短いかでモテたりモテなかったり。
だが少なくとも、致命的な欠陥を持つ事は回避出来る。変態性癖も含めて。それは多分近い将来に現実になるし、止めようとも思わない。他人が「幸せ」を追求する自由を支持する。
 
もし、自分に子供が生まれるとして、私は遺伝子疾患を抱えて、夢と現実の狭間に苦しむビンセントが「欲しく無い」。もし選べるなら、遺伝子疾患を削除する項目に全てサインする。ゲイになりやすい遺伝子も削除する。変態性癖も防げるなら防ぐ。暴力的な性格も消す。顔立ちも美しくして上げたいし、背も高くしてやりたい。運動神経だって。知能だって。そしてもちろん、対人コミュニケーション能力も。私のように興奮して言ったり言い返したりする度にアドレナリン過剰分泌で指先が震える様な吃音持ちにしたくない。独りで寂しく死ぬだろうコミュニケーション不全にしたくない。世界を呪わずに済むようにしてやりたい。それが出来るのに手を伸ばさないなんて私には無理だ。
 
やむを得ず産まれて来る遺伝子疾患の子供達を居なくしたい、その「他人が幸せを求める気持ち」に「多様性」なんて言葉は無力だ。遺伝子操作を行う事はこれから先産まれて来るかもしれない彼/彼女を、可能性を殺す行為だが、「幸せ」の前にやっぱり「可能性」は無力だ。そんなに「多様性」や「可能性」が大事ならお前がその不利益を背負え、って話だからだ。
 
かろうじて声を上げるのは宗教だろうけど、私は「宗教は病」だと思う程に宗教が嫌いだ。人の不寛容さを維持増幅するのはいつだって「正しさ」だし、「正しさ」は私を愛したりしない。糾弾するだけだ。
人はコミュニケーションする動物で、ディスコミュニケーションは「悪」だからだ。そんな教会の「お情け」的ネットワークに組み入れて貰わなくても、私達はもう生きて行ける術を持ってるのに。人が何をするにも顔を突き合わせなければ生きて行けなかったのは昔の話だ。
その宗教が「正しく」産まれるであろう子供を、それを望むであろう親を糾弾するだろうか?やったとしても反動保守的な頑迷な人達だけだろう。何とか「あるがまま」を生きようとし、やがて数が減り、消えて行くだろう。もっと酷ければ、「新世界の奴隷階級」が彼らを待ってるのかも知れない。「ガタカ」はそういう未来を描いた。
 
私に連れ合いも居ないので子供も出来ないが、相手が居なくても子供が作れる社会になっても……私には多分、自分の子供とのコミュニケーションも苦痛だ。そんな完璧な人間は特に。もし仮に、こんな自分でもいいと言ってくれる人が居たとしても、こんな苦痛に付き合わせたく無い。誰も巻き込みたくない。
それ以前に例えば手術や矯正によって私のマイナス要素が克服されたとしても、私にとって「他者」なんて物はそんなに「価値ある」ものじゃない。既に必要もないのに手に入れたいとか、関わりたいとか思ってすら居ない。何でこいつらはただ「放っておいて」くれないんだろう?他人が「幸せ」を欲しがるのを止めるつもりも無いから私が「幸せ」など欲してないんだと分かって欲しい。私にとっての幸せとは「平穏」の事だ。
 
ああ、聞こえる。「要らないと言いつつ彼が幸せになりたいと願っているのが痛い程に伝わって来ます」…殺してやろうか?その自分が高い場所に居る、と下を見て確認する行為が、勝ち誇る声がどれ程人を傷付けるか。言うのは勝手だが私にそれを「強要」はするなよ?私の遺伝子改造申請書類にサインする権利を他人にやる気なんか無い。私が私のまま生きるのは私の自由だ。
私がお前達に興味が無いのと同じ様に、私を「お前達が愛せる私」に作り変える事が出来るなんて思わないでくれ。
 
静かに誰にも迷惑を掛けずに生きて、適当に楽しんで、独りで死にたい。本当に無人島に独りは生きて行けないから、苦痛じゃない程度に社会と関わりたい。おつり貰って「どーも」レベルで。その位がちょうどいい人間も居るし、それも結構な数が居るんじゃないだろうか。完全に断絶する事が困難でも、社会との関わり深度がWEBのおかげでコントローラブルになった。私にとっては歓迎すべき事だ。
 
人と関わるなんてのは苦痛そのものだ。他人と自分の格差を見せつけられて、何が楽しい?低い方に居る人間がいつだっている。苦しみを押し付け合う事に何の意味がある。苦痛を誰かに押し付けるような人間になりたく無いから断絶してるのに何故干渉する。もう一度あの「いじめ」の連鎖の中に戻れとでも言うのか。
 
昔、まだ中学生の頃、車椅子の中年男性が若い女性に押されて本屋に入って来た。男性はSM写真雑誌を買って行った。女性はどういう関係かは分からない。あの時代だから介護の人というのもそれ程普及していなかったので親族かも知れない。女性はいささか不愉快そうにはしていたが、男性が買い物をするのを黙って見守り、また車椅子を押して出て行った。
 
当時も今も私にはそれがどういう意味があるのかも良く分かって居ないが、強烈な印象に残って今でもハッキリ覚えている。自分の事を省みる時、必ず彼の姿が浮かぶ。彼の内面はどうであるかは全く分からないのだから、私の中の彼の印象は私の心の投影に過ぎ無い。彼は私の中でビンセントであり、ユージーンだ。「あらかじめ呪われた者」と「「幸せ」を失って呪われた者」だ。
 
社会が「いじめ」をやめれないのはもう分かってる。「非対称性」だの「差別」だの語彙を駆使してもいいが、アレは私には「いじめ」だ。「いじめ」られるのも誰かをいじめる側に回るのも嫌なので「断絶」を選んだ。
社会に出れば、かつて自分がそう強いられたように、もう自分が「いじめ」られるのを止める為に、誰かの腕に鉛筆を突き立てたくても、誰かの腕に届かない。
そうしたら反撃の出来ぬ弱者と見られて攻撃された。独りで居ても「存在そのものがキモくてコワイ」と怯えられた。どこまで逃げても追って来るなら、もうこの世に生きる場所がない。「断絶」するしかない。
 
ビンセントは努力して努力して運命をはね除け、宇宙に行けたけど、帰っては来れなかった。
彼は「幸せ」を欲したんじゃなく、アイリーンを、「幸せ」を捨て、自分で有り続ける為に「ここでは無いどこか」へ旅立った。生まれながらに与えられた「幸せ」を事故で失ったユージーンは自ら死んだ。
あれは頑張れば「夢」は叶って「幸せ」は手に入るなんて話じゃなく、自分で有り続ける為には独りで死ぬしか無い、って話なんだ。
 
キモオタを突ついて遊んでるヤツらには、言葉なんか通じない。
奴らは「正しさ」を盾にして「悪」い私を取り囲んで小突き回し、集団で恥辱を与えて娯楽にして来た。
「「普通」は「正しい」」「コミュニケーションは「正しい」」
「クラスに溶け込まないお前が「悪」い」「皆と違う事をするお前が「悪」い」「「普通」に生きられないお前が「悪」い」
幾ら悲鳴を上げても、助けを求めても、奴らを楽しませるだけだ。
突けばキモイ汚液が飛び出すんだと学習させるしかない。殴るヤツらの手を汚してやろう。キモイ汚液でな。キモさの持ち合わせならある。
中途半端に誰得なオタクの自分語りを聞かせてキモがらせても、それすら娯楽にするだろう。誰かの「キモさ」は自分の「普通さ」を再確認させてくれるからだ。だからヤツらは「普通」じゃない物を小突き回して今日も楽しむ。
 
そうじゃ無い、と言うなら「放っておけ」他人の事は。
社会が、お前らがそうしてくれれば私達は姿を消す。今まで通りに自分達を不可視化する。
我々が言ってるのは終始「我々の人権を制限しないでくれ」「だけ」なんだから。「お前のせいで殴られた気になってる人が居る!」と言いつつ我々を殴るのを止めてくれたらこっちも「殴るの止めてくれ」と言わんで済む。
 
誰も愛してくれ等と言ってない「無視してくれ」と言ってるだけだ。エロゲーオタ叩きさえ終わってくれれば私ははてなから消える。犯罪者扱いされずに汚らしい妄想で性欲を浪費出来る「平穏」に戻る。
 
【2】「理想じゃない」世界に生きる
「誰にも迷惑をかけないから放っておいて貰う」為のコストなら税金で十分だ。本当にお前らが「正しい」ならそのカネを使って差別を補填して行けばいい。私の与り知らぬ場所で起った差別への手当に私のカネが使われようと文句は言わんよ。社会が「ちゃんと回る」ならそれに乗っかって生きるしかない私にもそれは「良き事」だから。
 
要求するヤツは通るかどうかは別の所で好きなだけ要求しろ。その主張する口は塞げないし「言うだけならタダ」だ。切迫して注意を引こうとする声が大きくなるのは当然だし、弱者の側にコスト計算を強いるのはナンセンスだ。一々計算なんかしてSOSを出せるか。同じ様に「不愉快だ!」って叫ぶヤツも言うだけなら好きにしろ、止める気も無い。私や誰かに何かを強要しない限りは。「道徳」に「人権の仮面」を被せない限りは。ヴィクトリア朝道徳婆さん達が「こっちの存在を抹消する気満々」じゃなきゃ関わり合いにもなりたく無い。一体誰が「その後我々がどうなる」なんて事を気にしながら「規制せよ!」と叫んだって言うんだ?
 
社会リソースの「効率的な再配分」の為に政府は有る。出来る出来ないは政府が決めればいいのだし「声のデカさ」なんかに引きずられては困る。比較衡量はちゃんとしてくれ。法律がウェットに「感情」なんて要素で左右されるなんか危険過ぎる。
政府の「効率」を監視するのは市民の義務だ。注視して投票行動でYES/NOを突きつけるのは「人間なんか」と顔を突き合わせるよりよほど私にとっては楽な話だ。私が必要としてるのは正しい判断を下す為の情報「だけ」だ。この糞みたいな社会で少なくともそれを手に入れる努力はしてる。
それは「誰かの為」なんかじゃなくて「自分(だけ)の為」だ。足下が崩れそうなのに自分の権利ばかり主張するヤツは勝手な以前にただの馬鹿だが「言うだけならタダ」だし、社会リソースが浪費されない限りは知らん。馬鹿の意見が通りそうな時には反対するが、社会は本来そういう「馬鹿さ」を直接実現したりしない形で運用される(べき)だ。その仕組みが崩れてるか古くて使いものにならないから政権交代が必要なんだろう。
公共工事の差し止めをすれば土木業界で人のクビを切られる訳だが今のまま放置する訳にいかないのは「社会リソースの浪費」だからだ。「誰かの「不快感」」なんかの為では無い。
 
ヴィクトリア朝婆さんの「道徳」から来る「不快感の表明」には突っぱねるのに、性被害者の「恐怖」から来る「不快感の表明」は突っぱねられないと考えるのは何故だろう?
ヴィクトリア朝婆さんだって自分の信じる「道徳」が社会から失われて行く事に悲しんでるだろうし怒ってるだろうし恐怖してるだろう。「ヒトラー 〜最期の12日間〜」のラストの方でもこの世から「正義」が失われれる事に苦しんでた婦人が居たね。その「正義」は間違ってる、と皆が思うだけで。あれだって「被害者感情」なのだ。
ひるがって性被害者の「恐怖」は誰だって「痛い思い」「怖い思い」「恥ずかしい思い」をするのは嫌で、だから「可哀想」と思えるし、しかもそれが一方的な抑圧から生まれた物であれば、「救済すべき」だ、とまともな神経をしていたら思う。
 
この二つの違いは皆がその「感情」を間違っていると「思うか」「思わないか」の差だ。
 
確かに性被害者は「悪く無い」し「救済されべき」だ。
しかし、それ以前に戻って少しは考えて欲しい。「被害(や差別)を彼女達に与えたのは我々(だけ)じゃない」って事だ。彼女らの「可哀想」な現状を作ったのは我々じゃない。勘違いするな。我々は性犯罪者じゃない。性犯罪幇助犯ならば「お前も含む」社会全体だ。俺は(直接)差別に荷担した事なんかしたこと無いぞ!って言うなら私だってやってねえよ。むしろ社会から断絶してる分だけ私の方がよっぽど差別から「遠い」わ。
 
その話が通じる相手だったから、また自分の言論の芯を風向き次第でコロコロ変えるような卑怯者じゃないから地下猫さんは
「>二次元の陵辱表現を人権侵害または他者危害とみなすことは放棄しますにゃ」
って言ってくれるんだろう。差別の解消を強者(と彼が思っていた物)の「人権を制限」する方向から弱者の「人権を補強」する方向へ移っているのだと思えるし、その方向自体に反論する気も無い。局所的にしわ寄せされた不均衡を正すには周囲から支えるしかないと思うから。差別の犯人も間違えてたと思うし、差別解消の方法も今の所具体的な物が見えないし、何より最初の狙いは別だったんだろと今でも思ってるが。
 
今後も「恐怖」の責任をポルノに向けるのかも知らんがそれは聞いて見ないと分からない。多分そのつもりなんだろうとは思うが。今はっきり言えるのは我々に何をさせても被害者女性が声を出して訴えるコストなんか1円も下がらんだろうって事。
キモイのが目の前に居たら怖いから喋れないだろ!ってか?だったらその前に性被害者を我々に突きつけて盾にし、その影から自分の「道徳」を語るのをやめろ。横からギャースカ言う声をどちらも排除して、まずは「彼女の」言う事聞いて見たらいい。声を出して訴えるコストを下げる方法は本人の声を「まずは皆が話を聞けるように」する事だよ。差別への最もポピュラーな参加方法は「放置」なんだから、まずそれから止めたらいいじゃないか。実際聞いて見ると我々が周囲から言われてる事と随分開きがあるのは私の気のせいか?
「(まず)現場の差別を無くしてくれ」と言われてるとしか思えんのだが。
 
ポルノを制限した所で差別が消える訳でも無いのに、まず現場の差別に働きかける方が先に決まってるだろ…「現場が良くならないので(まず)表現規制の話をする」って相当頭悪い論理破綻だろ。「自分の差別」を放置する「いいわけ」だろそれ。「俺はキモオタを叩いてるから差別問題にコミットしてる!」とか言うなよ?
 
まず被害者女性が「差別を無くして下さい」と「救い」を求めてるならそれは我々(だけ)に対して言う事じゃない。というかキモオタはあなたの前に呼ばれないと現れないし関わらない。だから差別にも荷担しない。匿名掲示板であなたを叩く人は「世間様」だし、我々「だけ」に言ってもそんな膨大な流れを止める事が出来るわけが無い。
 
そう、こうなるともう「出来もしない要求」だ。「社会の差別解消が進まぬからお前らキモオタの表現が叩かれるんだ」とは水に放り込んで浮かべば魔女、沈めば非魔女(ただし死亡)とどう変わるんだ?因果逆転かよ。我々にそんな能力はねえよ。セカイ系かよ。キミとボクが出会って善意が有ればセカイは変わるか?変わる訳がない。社会を変えるのは政治の仕事だよ。社会が良くならない責任をどうしてキモオタの表現を消す事で解消出来るって言うんだ?誰かが自分の「不愉快さ」を「排除」する為に人権は有るんじゃない、どうにか「共存」する為の知恵だろ。私達は社会の「害悪の元栓」なんかじゃ無いんだから締めたって何も止まらない。
 
「怖いんでこの世から消えて下さい!」じゃこっちが傷付くわ。というか普段は我々隠れてるから。引きずり出してあなたの目の前に晒した人に「いや!キモイんでそんな物見せないで下さい!!」と言ってくれ。我々も安心出来る。我々に出来る範囲で「キモイ物を見ない自由」を容認する。この2つの差には凄まじい開きがあるのにすっ飛ばす人多過ぎる。

 
そして「恐怖」は「被害や差別から」生み出された「感情」だ。我々が生み出した物じゃないよ。我々は「放っておいて欲しい」だけなんだから。非難されなきゃ声も上げない。望みはディスコミュニケーションだけだ。彼女達の感情の回復に反対してる訳じゃない。キモオタとコミュニケーションして性被害者の感情が回復される訳でも無し。キモイ物目の前に突きつけられて癒される訳が無いよ、誰だってキモイ物見たく無いし、居たら変態だろ。仮にキモオタの表現を抑圧したら感情が晴れる「キモオタセラピー」で感情回復したとしようか(世間では絶賛実行中で道徳婆さんの溜飲を下げ、集票効果もあると大変好評だ)。
節子それセラピー違う、「いじめ」や!
そして「感情」の回復の「ネタ」に踏みつけにしていいほど我々の人権は軽いのか?感情の回復はキモオタの表現を踏みつけにする以外でも出来るだろうし、そうしてくれ。
 
「感情」は「現実」じゃない。「不快感の表明」をされてそれを受け止めた側がどう「配慮」するかしないかは「人権」の外側の話だ。喋る前の制限の話じゃない。「不快感の表明」をされた側が「一方的に抑圧」されたんじゃそれは「新たな差別」だ。
 
被害者感情を相対化するなとか言われれば、だったら我々は「ヴィクトリア婆さんの言い分だって聞いてはいる」。聞いてはいるが同じように突っぱねて、でもヴィクトリア婆さんが「不意打ち」で見たりしないように自分達のコンテンツを囲ってやる。「ここより先には性的な物がある」と警告を置いてる。同じ様に対応して何故悪い?勝手に入り込んで勝手に騒ぐな。誰も呼んでない、と。「見える所に」置いといた覚えも無い。少なくともエロゲーゾーニングを破壊して性被害者にレイプレイを押しつけて見せて「酷い」と言わせたのは我々じゃない。そんな非道を望むならそもそも隠れない。
 
自分の道徳感で「正しさ」を追い求めるなら同調者だけでやれ。それを他者へ「強制」するのはただの「抑圧」だ。ポルノ製作者/ユーザーを自分の価値観で迫害するのは「社会の公正さ」とはまるで関係無い話だ。
 
ディスコミュニケーション社会こそが唯一、現実の差別を緩和する。私はそう確信している。「こっち」がまずまず快適な社会だと私は知っているから。