toroopさんへのお返事

toroopさんへのお返事
http://d.hatena.ne.jp/toroop/20090715/p1
へのお返事です。

【1】カッコワルイ!について
 まず「格好悪い」と言われても別に私はあなたの言葉で特に危害を感じませんし、矜持も傷付けられないのでご自由にどうぞ。「性犯罪幇助犯」呼ばわりされ責任追及でもされない限りは特にコメント欄やエントリーに出るつもりは有りませんがIDコールされましたので。
(引用にidが付いている場合はid:toroopさんへのお返事ですのでカットしました)

その問題とは別に、私は「畑は(まだ)荒らされて居ない」という立場を取る者だからその非難にも値しないと考えます。一つだけ申し上げれば、誰かの畑が実際に荒らされればリベラリズムだろう何だろうが荒らした本人は法によって罰せられます。

 mojimojiさんtikaninemuru_MさんApemanさんと、FurukatsuさんNaokiTakahashiさんの議論はどこからが「他者危害なのか」という線引き、その先に有る物への対処を「表現の自由を主張する際の義務とするのかどうか」と言う問題でした。
 その先をどうする?と言う問いに対しては「個人の名誉権を超える集団的名誉を認めることは危険が大きい為、平等の実現のためには不利益取扱の段階で対処すれば足りる」と答えます。それ以上は道義的な「配慮」に過ぎ無い。
Apemanさんも

>法規制は特定の個人の人権が具体的に侵害される場合に限るべきだ、というのは正論ではある。表現による暴力のうち特定の個人への具体的な侵害になっているものとそうでないものとの間に線をひくことには一定の合理性がある。しかしこの合理性は「ここに線をひけば表現による暴力に効果的に対処できる」という性格のものではなく「これより向こう側に線をひけば弊害がある」という事情によるものだから、「法規制に反対するとして、それからどうする?」が問われることになる。この問いを拒絶する法規制反対論には私は与することができない。

としか仰って居られない。
「人権が衝突した際には比較衡量されなくてはならない」この原則に反対して居る人は、少なくともこの議論の中には居られないのでは無いですか。
だとすれば、後には何が残るのでしょう?

怯える人が居れば、その言論を「封殺」するかどうか、欧と米のヘイトスピーチ/他者危害の基準を巡る争いでしかない。比較衡量の線引きのいわば「綱引き」です。

【2】[人権プロレス]について
[人権プロレス]とは特に実効力も無いはてなと言う狭いリングで日本国憲法の解釈を巡って争っている事を指して分類する為に付けました。ここでは[憲法プロレス]とでもした方が良かったかも知れません。

ブログで言及したら現実の社会問題解決に何か役に立つのでしょうか?Apemanさんは「動員などしていない」のですから特に社会運動への参加の呼びかけも意図されて居ないのでしょう。
この論争自体が現実社会には「何の」効果も無いから所詮リングの上の「見せ物」に過ぎ無いと言っているのですよ。見ている側もその程度の「観戦者」に過ぎ無い。現実の社会問題に何もコミットなどしていないのです。「法」でも「道徳」でも無い「何か」が姿を現さない限りは。

 むしろFurukatsuさんが性犯罪被害者に直接反論するか躊躇っておられる時に、けしかける「野次」を飛ばしたのは誰でしょう?その姿にプロレスに興奮して唾飛ばす「観客」の姿を見たのは私だけでしょうか?

>Carnot1824 ↓「紐のつかない表現の自由」にセカンドレイプの自由が含まれることをようやく理解されたのでは。(2009年8月9日訂正)

>hokusyu furukatsu 様は、いくら死体を踏みつけてもかまわないとか威勢の良いことをおっしゃりながら、いざ直接コメントすることとなると怖気づくのですね。きっと根は良い人なのでしょう。もう楽になってよろしいのですよ。

>furukatsu seijigakuto だから、直接コメントとかトラバとかやりたくないんですよね、彼女みたいな人には。ただ、その判断も差別的ではないかと悩むところで。o_ne_i 戦いたくは無いけど…うーん

 私には「おら、いつも威勢のいい事を言ってるんだからさっさと言ってる通りに機関銃でなぎ倒せよ」と言って彼を小突き回している様にしか見えません。この結果彼がコメント欄に本当に突撃して被害者女性が傷付く事になれば、それこそ実際の他者危害が発生してしまう。彼らは「それからどうする?」を考慮しているとは到底思えません。
私自身はFurukatsuさんが被害者女性に直接反論の声を掛ける事は、相当に言葉を選ばねば被害者女性への罵倒/ヘイトスピーチになってしまいかねないと考えたので

>nppaemon Carnot1824今まで理解しないで言ってたみたいな言い方ですね 被害者「個人」に言えばセカンドレイプになるでしょ

とブックマークしました。あれはFurukatsuさんへのメッセージでもあります。

【3】法と道徳の間
Apemanさんの「必要もないのにことさら『70年前死んだ中国人のことを本気で思うことは出来ない』なんて言うなよ」に対し私は全く反論をする気はありません。
「その通りだ」と思います。道義として。
また、TikaniNemuru_Mさんの様に「出来もしない事を要求」してくる訳でも無い。その事は「それ、普通に要求されてると思いますが?」のエントリーでハッキリ示して頂いたと考えております。
自分の矜持を傷付けられる事に敏感なのであろうfurukatsuさんはさっさと他者の矜持を傷付けた事に「ごめんなさい」をすればいいのに、と思っていました。そういうコメントやエントリーを書きかけてはいましたが、彼を巧く説得出来るかどうか自信が無かった。
ただし、私にとってそれは依然として道義的な責任の問題に過ぎ無いのです。

Apemanさんは一貫して法による規制を言って「おられない」ので、その後に来る明確な他者危害(個人への脅迫など)を含まないヘイトスピーチへの対処は、道徳的批判以外の「何に」よって行うのか?
それがさっぱり見えて来ないので、私にとっては当面の関心事はそこに有ります。
そういう意味において、私自身も議論の成り行きを眺める「プロレス観戦者」であります。
「公共圏」的な物をApemanさん自身が言った事は有りませんが、
「公共圏」が実効性を持たないので有れば誰も救えない、陵辱ポルノやヘイトスピーチは既に周辺化された存在なのですから。
「公共圏」に実効性を持たせるので有れば、それは人権擁護法案による創作物表現規制へと結び付くでしょう。
そうはならない「第三の道」の模索がなされるのであれば、それは「道徳による批判」で既になされているのでは無いか?それが私の視点です。

WEB上での言説を例に挙げてみましょう
1)「アメリカ人はデブばかり」=>怒る人が反論すればいい
2)「●●人は国へ帰れ!」=>周囲が道義的批判で「そんな事を言うな」と言えばいい
3)「●●、手前を殺してやる!」=>明確な脅迫で逮捕
これで何か問題が有るのでしょうか?

「●●人は国へ帰れ」的言説が、少なくとも公式の場で力を持つ事は無いでしょう。問題発言を繰り返す都知事を投票で選んでしまう東京都民の民度はともかくとしても、批判を浴びている以上は日本を代表している意見でも何でも無いでしょう。

むしろ私には「そんな事を言うな」と道義的批判を発する者の存在が、暫定的に現実に存在しうる「公共圏」として機能するのでは無いか?と思えます。
現実に手を伸ばし得る、法規制からこぼれ落ちる他者危害を救い得る存在です。
具体的に名前を出せばIshikeriasobiさんはそうで有り得る。

ウンコ国旗は稚拙に過ぎ、逆の効果を生んでしまった。
現実の被害者を救う事にコミットする者と、差別を批判する事にコミットする者の視線の差がそこには有るのかも知れません。

【4】ヘイトスピーチによる「他者危害」の線引き
明確に個人を傷付けているのでは無い表現を他者危害として論じる事は、表現活動にコミットする者としては、到底飲み込めぬ話です。
「別に丸呑みしろとは言ってないから、「知るかボケ」と言う前に考えろ」と言われるでしょうから、私自身が行う道義的「配慮」、「配慮しない者」に対しては道義的な批判で良いと考えます。
それを(誰か個人に投げかけられた訳でも無い)「表現をする際の法的な義務」とするのかどうかには疑問が大いにあるだけで。
身近に「●●人は帰れ!」と言っている友人が居れば「まぁそう言わずにこういう人も居るのだから」と実例を交えて話す事位はしていますが、それは私の道義から出た行動に過ぎ無い。

Ishikeriasobiさんの活動は、余りに孤独で見ている限り社会の公正さをギリギリで維持する為の「滅私奉公」の様に見える(もちろんこれは私の主観で、現実には支えてくれる仲間や、共に戦ってくれる戦友が居るのでしょうが)。
しかし、そういう現状を救済するのに必要なのは、既に官僚や上からの法整備による誘導などでは無いと考えます。
リベラリズムにおいて、民主主義はその様な物ではない。政府主導や法律や権威的な「公共圏」的な物によって形成されるのでは無く、雑草の下生えの様な物から芽生える物です。
それはせいぜいが草の根人権教育と言った物で、「お上」の考える「正しさ」を注入するのでは無く、現状の問題を提示して一人一人に「自分で考えさせる」形式を取るのが理想なのでは無いでしょうか。
そういう行動のみがIshikeriasobiさんの活動の困難さを緩和し、反対する者の怨念をも緩和し得るのでは無いでしょうか。

例えばもし、人権擁護法案等による創作物への規制や淘汰などが議論の延長線上に登るなら、それは優先順位の錯誤も甚だしい話です。tikani_nemuru_Mさんも仰っておられるように

>「そういう社会でなくなれば、暴力的なポルノも女性に対する恫喝にはならない。あとは自分で考えよう。」

なのですから「自分で考えさせれば良い」のです。答えを間違う者も居るでしょう。それが事実と反しているならば指摘し、再考させれば良いのです。
一足飛びに結論だけを「上」から与える様な言論をこそ、私は警戒し、否定するでしょう。

道義的に誰かを救う為に声を上げる、声を上げる物を支援する事と、例えヘイトスピーチのごとき言説にも言論の自由を与える事は、私の中のリベラリズムと何ら矛盾しない。
「自分の畑を荒らされない限りは放置」出来る事が「明日はわが身」と思える事に道義的にコミットする事を阻害する事は無い。
法規制と道徳の間に「公共圏」など建設する必要は無いのです。
「明日は我が身」と思える共感は「公共圏」での表現の周辺化などで養えるとは思えない。

今回の議論を追う上で私にとってはそういう自覚が芽生える意義が有りました。
もちろん、mojimojiさんのごとき「諸君に考えさせる機会を与える為に罵倒したのだ」的な言説を許容する気はさらさら有りませんが。

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Apeman/20090712/p1
追記…Apemanさんは一貫して法規制の話をしておられないのですが、何故か周囲の人に「差別問題にコミットしないのであれば表現を法規制」と言い出す人が見られます。
これは何故なのか興味深い所です。意見の対立する者の言論を封殺する道具は、自分にも向けられる物なのだと言う警戒心が何故か薄い。
それはご自身の「正しさ」に対する自信の表れなのでしょうか?
現実の法運用に対して、私は「正しさ」等で運用される機会は(残念ながら)少ないと警戒する者ですので、この様な一種無邪気な性善説には違和感を表明します。
そう主張するのならば統治権力や社会が過ちを犯したとしてもそれを阻止する手立てを十分に講じてその後に」と言う前提条件を付けるでしょう。